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20.消えた若殿 [銭泡記]


 糟屋から突然、お屋形様が江戸城にやって来た。道灌が亡くなって一月後の八月の二十五日の事だった。大勢の兵を引き連れて、お屋形様は意気揚々とやって来た。城下の者たちはヒソヒソと内緒話を交わしながら、お屋形様の軍勢を迎えていた。

 銭泡も大通りまで出て、お屋形様の軍勢を見た。槍をかついだ鎧(よろい)武者の行列の後、派手に着飾った小姓(こしょう)たちに囲まれて、お屋形様は小具足(こぐそく)姿で得意そうに葦毛(あしげ)の馬に乗っていた。

 どうして、江戸に来たのだろうか‥‥‥

 豊後守の城代振りを見に来たのか、それとも、道灌の嫡男、源六郎に家督を与えなかった言い訳でもしに来たのだろうか‥‥‥

 その日の夕方、銭泡は風輪坊から城内のお屋形様の様子を聞いた。

 静勝軒に入ったお屋形様は二人の美しい小姓を連れて、まず、三階からの眺めを楽しんだ。二階に降りると道灌の書斎に入って、しばらくの間、道灌が残した書物や茶道具を感心しながら見ていた。その後、豊後守に案内させて、城内の櫓(やぐら)や濠や土塁を見て回り、東側の敵を想定して縄張りされた江戸城を北及び西から攻めて来る敵を想定しての守りを固めるための指示をした。そして、主殿(しゅでん)の大広間に待たせておいた源六郎と対面し、父親の事を慰め、父親を殺したのは管領の手の者の仕業だと言い、わしが必ず、仇(かたき)を取ってやるから安心しろと言った。

 源六郎が太田家の家督の事を言うと、そなたはまだ若い。わしは道灌の仇を討つために管領と戦う。そうなると敵がここを攻めて来る可能性も高い。そなたはまだ戦の経験がない。そこで、とりあえず、岩付の彦六郎を家督としたのじゃ。今後、父上に負けない程の活躍をすれば家督は勿論、そなたのものじゃ。この江戸城もそなたに任せよう。見事、父上の仇を討つ事じゃ、と言ったという。

「それで、源六郎殿は引っ込んだのか」と銭泡は文机(ふづくえ)から顔を上げて風輪坊に聞いた。

 銭泡は美濃に帰る万里のために、茶道具の鑑定書である『君台観左右帳記(くんたいかんそうちょうき)』を書き写していた。

 『君台観左右帳記』は前将軍義政の同朋衆(どうぼうしゅう)だった能阿弥(のうあみ)によって書かれた、当時、唯一の唐物(からもの)に関する鑑定書だった。銭泡の師である村田珠光(じゅこう)が能阿弥より伝授され、さらに、銭泡が珠光より伝授されたものだった。餞別(せんべつ)代わりに万里に贈ろうと思い、せっせと写していたのだった。

「いえ。引っ込みはしませんよ」と風輪坊は言った。

「豊後守が城代になるのは納得しない。江戸城は自分が立派に守ってみせる。豊後守がここから出て行くように命じてくれと頼みましたが、お屋形様は聞きませんでした。上段の間の襖(ふすま)はしめられ、お屋形様はさっさと静勝軒の方に行ってしまわれました」

「そうか‥‥‥お屋形様もいい加減な事を言うもんじゃのう。道灌殿を殺(や)ったのが管領殿だとはのう」

「お屋形様は管領殿より度々、道灌殿を生かしておくと長尾伊玄のように反乱を起こすに違いない。反乱が起きてからでは遅い。両上杉家のためにも今のうちに道灌殿を成敗した方がいいと言われていたそうです。お屋形様は、そんな事には耳を貸さなかったが、とうとう、管領殿は曲者(くせもの)を使って道灌殿を殺してしまった。まったく、許せん事じゃと言っておりました」

「そいつは本当の事なのか」

「さあ分かりません。実際に、そんな事もあったのかもしれません。しかし、お屋形様は自分の配下の者が道灌殿を殺したと信じています。管領殿が道灌殿を殺したというのは、嘘と承知の上で言っているんでしょう」

「うむ、じゃろうの。源六郎殿は豊後守のもとで管領殿と戦う事になるのかのう」

「その事で、太田家の重臣たちも二つに分かれています。今はじっと我慢する時じゃ。戦で活躍すれば、お屋形様も分かってくれるはずじゃ、と言う者と、道灌殿を殺したのは曽我の親子に違いない。もはや、お屋形様は信じられん。お屋形様のもとを去って、管領殿を頼るべきじゃと言い張る者がおります」

「うむ。源六郎殿の立場から見れば、今の状況で我慢して行くのは辛いじゃろうのう」

「ええ」

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19.江戸を去る文人墨客 [銭泡記]


 江戸の城下にも道灌は病死ではなく、殺されたとの噂が広まっていた。ただ、誰に殺されたか、となると様々な噂が飛び交った。

 江戸城を乗っ取った曽我豊後守が殺ったに違いない‥‥‥

 いや、豊後守ではなくて、河越城に入った豊後守の親父、兵庫頭じゃ‥‥‥

 それは違う、殿様に長年苦しめられた長尾伊玄に決まっている‥‥‥

 そうじゃない、管領様じゃ。殿様の活躍があまりに有名になり過ぎたんで、妬(ねた)んで殺してしまったんじゃ‥‥‥

 本当はのう、女子(おなご)が原因らしいぞ。何でも、糟屋のお屋形様の愛妾(あいしょう)が殿様に惚れてしまい、お屋形様はかっとなって豊後守に殺させたんじゃよ‥‥‥

 真(まこと)しやかなものから、とんでもないでたらめまで、様々な噂が飛び交っていた。中でも、江戸の町人の支持を受けていたのは、豊後守が殺して、江戸城を乗っ取ったというものだった。

 銭泡は糟屋から帰ると、さっそく、芳林院の周厳和尚のもとに行き、大慈寺の首塚の事を確認した。勿論、和尚は何も知らなかった。何も知らなかったが、大慈寺に道灌の首塚ができた事を喜び、立派な供養塔を建てなければならんと張り切ってしまった。

 道灌の首をあの寺に葬ってくれたのは、仏様のお陰に違いない。有り難い事じゃと、さっそく、糟屋に向かう旅支度を始めてしまった。その首塚が本物か偽物か、まだ分からないとは銭泡には言えなかった。

 竜仙坊は中道坊に会うために河越に向かった。五日も経つというのにまだ帰って来ない。あの竜仙坊が殺される事などないとは思うが心配だった。

 風輪坊は毎日、城内の様子を探ったり、城下に、お紺が来ていないかどうかを調べていた。銭泡はお紺など来ない方がいいと願っていたが、風輪坊は、お紺がもう一度、銭泡を殺しに現れる事を願っていた。

 お志乃は銭泡と一緒に暮らすようになってから、店番と銭泡の面倒を見なくてはならなくなり、前よりも忙しくなったので、お鶴という若い娘を雇って店番をやらせていた。なかなか機転の利く娘らしく、暇な時には店をその娘に任せて、銭泡から改めて『茶の湯』を習っていた。

 最近になって、銭泡は万里と共に、やたらと送別の宴に招待されていた。道灌を頼って江戸に滞在していた僧侶や公家たちが、道灌が亡くなってしまったので江戸を去ろうとしていた。彼らのほとんどは旅の途中、道灌に引き留められて、江戸に滞在していた者たちだった。江戸城内の客殿に滞在していたのに、豊後守によって無理やり追い出され、城下の旅籠屋に移った者もいる。道灌が亡くなって、江戸城も豊後守のものとなり、江戸に見切りを付けて他所(よそ)に行こうというのだった。

 銭泡と万里は送別の宴に招待されては、彼らと道灌の思い出を語り合い、別れを告げなければならなかった。別れを告げる度に、この江戸もだんだんと淋しくなって行くのを感じない訳にはいかなかった。長く江戸に住み着いていた公家たちの中にも、道灌がいないのでは、と移住を考えている者も多かった。

 今日も京都に帰るという春水庵という歌人に別れを告げたばかりだった。その歌人は鈴木道胤の『紀州屋』に滞在していた。紀州屋を出た二人の気持ちは沈んでいた。

「みんな、いなくなってしまうのう」と言って万里が溜め息をついた。

「何となく、この町も活気が無くなって行くようじゃ」

「どうじゃ、もう少し、飲まんか」と万里は歓楽街の方を見た。

「遊女屋に行くのか」

「いや、女子を抱くような心境じゃないわ。ちょっと、酒を飲むだけじゃ」

「そうじゃのう。もう少し飲むか」

 二人は八幡神社の側にある小さな飲屋の暖簾(のれん)をくぐった。店の中には二組の町人が静かに酒を飲んでいた。

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