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22.駿河の国へ [銭泡記]


 銭泡はお志乃、お鶴、使用人の老夫婦を連れて旅籠屋『紀州屋』に移った。道灌を慕って江戸に来ていた旅人たちが皆、帰ってしまったため紀州屋も空いていた。

 使用人の老夫婦は元々、紀州屋で働いていた。お志乃が店を出した時、道胤がわざわざ付けてくれたのだった。紀州屋の女将に訳を話して引き取ってもらった。

 善法園は道胤に無断でしめる訳にはいかないので、昼間、お志乃はお鶴を連れて店の方に通った。

 風輪坊とお紺の二人も紀州屋に泊まっていた。風輪坊はやたらとお紺に気を使って、お紺のためなら何でもしてやっていた。お鶴も、あんな風輪坊は見た事もないと呆れていた。それでも、銭泡を守るという使命はきちんと果たし、紀州屋に移ってからも、昼夜、油断なく銭泡の身辺を守っていた。

 お紺は、これからどうなるのか分からないけれど、風輪坊と一緒に生きて行こうと決めていた。今まで、真剣に男の人を好きになった事などなかった。でも、風輪坊なら好きになれるかもしれないと思っていた。風輪坊は自分のような女でも優しく大切に扱ってくれる。この人と一緒に新しい生き方をしてみようと決心していた。また、お志乃も何かと気を使って、お紺の面倒を見てくれた。

 今まで、自分の事を親身になって思ってくれる人なんて誰もいなかったお紺にとって、初めのうちは、どうして、こんなに親切にしてくれるのだろうと戸惑っていたが、やがて、皆の親切を素直に受け入れるようになって行った。お紺も何もしないではいられないので、お志乃の店を手伝う事にした。

 善法園は暇だった。時折、町人が安いお茶を買いに来るだけだった。曽我豊後守の家臣たちは大勢いるのに、茶の湯を嗜(たしな)む者はいないらしい。同じ武士でも、やはり、道灌は違っていたと改めて感じていた。このままでは商売は成り立たない。道胤に相談して店を閉めた方がいいかもしれなかった。

 銭泡は風輪坊らと一緒に駿河に行くつもりだった。道灌が亡くなり、早雲が京から戻って来るだろう。そして、竜王丸がお屋形様になって、新しい今川家が生まれる。今川家中の重臣たちの中には茶の湯を嗜む者も多い。高級なお茶を売れば喜ばれる事だろう。道胤が戻って来たら、さっそく話してみようと思ったが、道胤はどこに行ったのか分からなかった。

 銭泡は万里にすべてを話して、越後には行かない方がいいと言うために、城内の梅花無尽蔵に向かった。

 茶室の方に人影が見えたので行ってみると万里ではなかった。明智孫八郎と仲居のおてるが何やら親密に話し込んでいた。銭泡を見ると慌てて、おてるが立ち上がった。

「なに、そのまま、そのまま。万里殿はおられるか」

「はい、おられます」と孫八郎は答えた。

「そうか、そうか」と二人に笑いかけると、銭泡は屋敷の方に向かったが、また、戻って来て、おてるに、おゆうの事を尋ねた。泊船亭にいた頃、世話になっていたおゆうが、その後、どうなったのか心配だった。

 おてるの話によると、おゆうはもう江戸にはいないとの事だった。仲居として、江戸城で働いていた娘たちのほとんどは太田家の家臣たちの娘で、親と共に江戸を去って行った。どこに行ったかは知らないが、おゆうも両親と共に江戸を去って行ったという。

 おてるは太田家の家臣の娘ではなく、この辺りの漁師の娘なので、そのまま残って、以前のごとく、万里の家族の食事の面倒をみているという。夢庵の子供を産んだおせんの事も気になって、おてるに聞いてみたが、おてるは知らなかった。おせんは鈴木道胤の家臣の娘だった。多分、品川に帰ったとは思うが、後で屋敷の方に行ってみようと思った。

 老鴬庵の床の間に、銭泡が描いた道灌の肖像画が飾ってあった。銭泡が、どうじゃ、似ておるか、と万里に見せた時、万里は何も言わずに目を潤ませながら絵をじっと見つめていた。その絵を銭泡は感激してくれた万里に贈ったのだった。

 万里は文机にしがみついて何かを写していた。

「精が出るのう」と銭泡は言いながら、縁側に腰をおろした。

「やるだけの事をやらん事には、お屋形様が、ここから出してくれんからのう」

「おぬしも大変じゃのう」

「早く、ここから抜け出して越後に行きたいわ」

「その、越後じゃがのう‥‥‥」

 銭泡は越後の事を話そうとして、竜仙坊が言っていた言葉を思い出した。万里に真相を話したら万里の身にも危険が迫るかもしれない。真相は話してやりたいが、万里の家族たちを危険な目に合わせる訳にはいかなかった。

「越後がどうしたんじゃ」と万里は顔も上げずに聞いた。

「あっ、越後か、越後はもうすぐ雪が降る」と銭泡はごまかした。

「雪か‥‥‥そうか、雪が降るんじゃのう。去年の冬は、ここにいて雪が少なかったんで雪の事など忘れておったが、越後は雪が多いんじゃったのう‥‥‥来月を過ぎたら越後行きは難しくなるのう」

 万里は筆を止めて庭を眺めた。

「一冬はここで我慢した方がいいんじゃないかのう。お屋形様がここに常におる訳ではないしのう」

「そうじゃのう。子供連れで雪の中を旅する訳にもいかんな」

「そうじゃよ‥‥‥」

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21.長尾信濃守 [銭泡記]


 シーンと静まり返った深夜、星は出ているが、月のない九月の初めの事だった。

 銭泡とお志乃の寝ている枕元に、音もなく現れた者があった。

 お紺だった。

 左手に笛のような物を持っている。右手の傷はまだ治らないのか、白い布が巻き付けてあった。

 お紺はしばらく、眠っている二人を見下ろしていた。意を決して、銭泡の側に近づこうとした時、隣の部屋から声が掛かった。

「お紺、今度は命を貰うぞ」

 お紺は立ち止まって板戸の方を睨んだ。板戸が静かに開き、風輪坊が手裏剣を構えて立っていた。

「お前は何者じゃ」とお紺は聞いた。

「それは、こっちが聞きたい事じゃ」

 お紺は笛を口元に持って行こうとした。

「死ぬ気か」と風輪坊は言った。

「伏見屋を殺して死ぬ気だったが、お前を殺して死ぬ」

「それは無理だ。後ろを見ろ」

 お紺はチラッと振り返った。後ろに手裏剣を構えた女がいた。

「死ぬのは、おぬしだけじゃ」

「何者じゃ」とお紺はもう一度聞いた。

「駿河の風摩党じゃ」

「風摩党? 駿河? 駿河の者がどうして、伏見屋の身を守るのじゃ」

「銭泡殿は駿河の早雲殿の大事な客人じゃ。死んでもらっては困るんじゃよ。それより、おぬしはなぜ、銭泡殿の命を狙う」

「親の仇じゃ」

「なに、親の仇じゃと。銭泡殿に親を殺されたとでも言うのか」

「そうじゃ。道灌と伏見屋は親の仇じゃ」

「道灌殿と銭泡殿が親の仇‥‥‥訳の分からん事を言うな」

「本当の事じゃ」

「おぬしは一体、何者なんじゃ」

「道灌と伏見屋に滅ぼされた豊島家の者じゃ」

「なに、豊島家の者‥‥‥ほう、そうじゃったのか。それで、道灌殿の命を狙っていたのか‥‥‥しかし、豊島家と銭泡殿とどういう関係があるんじゃ」

「伏見屋はその頃、道灌の軍師だった。伏見屋の指図で残党狩りが行なわれ、あたしの妹と弟、そして、母上は無残にも殺されたんじゃ」

「何を寝ぼけた事を言っておる。当時、確かに銭泡殿は江戸にいたかもしれんが、軍師などではない。ただの茶人として、お茶室を作っていただけじゃ」

「嘘だ。あたしの家族を殺したのはその男だ」

「まったく、話にならんな。そんな嘘を誰に吹き込まれたんじゃ」

「嘘ではない」

 銭泡が目を覚ました。

 銭泡は体を起こすとお紺を見た。

「わしではないぞ」と銭泡は言った。

「嘘だ、お前はあたしの家族を殺したんだ。あたしはお前を殺して死ぬ」

 お紺は笛を口に当てようとし、風輪坊とお紺の後ろにいる女は手裏剣を投げようとした。

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